創世記11章に記された「バベルの塔」の物語は、神による人類救済の新しいパラダイム(アブラハムの選出)への転換を告げます。直前の10章ではノアの息子たちから諸国民が分岐し、それぞれの言語と土地を持って全地に広がっていく様子が記されます。それは神の「地に満ちよ」という祝福の成就でした。それに対して、11章は同じ「分散」という事象が、人間の反逆に対する神の裁きの結果として示されています。人類の拡散が「神の恩寵による展開」と「人間の罪に対する規制」という二つの側面から照らし出されるのです。
シンアルに定住した人類は、一致団結して天にまで達する塔を建てようとしました。これは神の主権を簒奪し、「自分たちのために名をあげる(名を成す)」ことであり、後に神がアブラハムに対して「あなたの名を大きくする」(12:2)と約束された恩寵とは対照的な、自己神格化の試みでした。
しかし皮肉なことに、人間が「天まで届く」と誇った塔は、神にとってはわざわざ降りてこなければ見えないほど矮小な存在でした。そして神は言語の混乱をもたらし、人間が神を介さずに築こうとした偽りの協力関係を根底から崩壊させたのです。バビロニア人は「バベル(バビロン)」をアッカド語で「バブ・イル(Bab-ilu)」、すなわち「神の門」と呼んだのですが、聖書はこれをヘブライ語の「バーラル(Bālal=混乱させる)」に結びつけ、「混乱の地」として再定義しています。人間が神を介さず、独自の栄光のために「一つの言葉」を用いることの危険は、神の介入によって未然に防がれたのです。
これと正反対の出来事が起きたのがペンテコステ(使徒言行録2章)です。聖霊の降臨によって、各国の言葉で福音が語られたのですが、人々はそれを理解し合いました。各国の言葉や文化(多様性)を否定するのではなく、多様性を維持したまま聖霊によって一つの福音を理解し合う「真に一つとされる時」が訪れたのです。バベルの塔の物語は人類の驕りに対する神の裁きを記すと同時に、神の御名によって成し遂げられる真の一致への希望を予示しています。
中村恵太